日総研「地域医療連携」
タイトル:質の高い救急医療を目指したホウエツ病院の地域医療連携
著者:ホウエツ病院理事長 林 秀樹、林クリニック院長 林 真見子
【はじめに】
当院のある徳島県美馬郡では、消防署の救急隊が東部と西部に二分配置され、二次救急病院がそれぞれに対応している。東部の救急搬送の大半は当院に来る。平成13年からは、救急隊から救急司令室へ通報が入った時点で当院への搬入要請の連絡(電話)があり、次に救急車が現場へ着いてからは、当院の救急担当医へ直接ホットライン(PHS)を通じて救急隊から患者の状況を知らせるシステムが構築されている。
二次救急病院は、かかりつけ医の要望や救急依頼に限らず全ての患者さんを24時間受け入れるのが勤めである。しかし、当院の様な65床の小規模病院では全ての診療科に対応することは困難であり、自院で治療できる範囲を超える場合には他院や三次救急医療機関(救命救急センター)に搬送することになる。
平成13年2月から徳島県では、徳島県立中央病院等の各救命救急センター全て、救急隊等が中心になり、それぞれが独立し別々の組織であった各消防署(救急隊)に横の連絡網を築き、お互いの情報交換や救急医療のレベルアップを目標とした、「徳島救急救命研究会」が発足し精力的な活動を展開している。この研究会には、各二次救急病院や行政も加入しており、当院の医師やコ・メディカルスタッフの教育訓練の場にもなっている。
救命に関してはバイスタンダー(救急現場に居合わせた人)が鍵といわれている。当院では救急医療に関する勉強会を通して、ACLS(Advanced Cardiac Life Support: 二次救命処置)に取り組むために、かかりつけ医の先生方と救急隊が共同で勉強会を開催している。また、救急搬送患者がその後どのような経過をたどったかを知ることが救急医療の質を向上させるためには欠かせない。そのため、当院では毎偶数月の第4月曜日の診療終了後、救急隊を交えた事例検討会を開催している。
当院が開院して以来、救急搬送件数は毎年、確実に増加していたが、ここ最近はほぼ平衡状態になりつつある。これはかかりつけ医の先生方のBLS(Basic Life Support:一次救命処置)、救急隊員が取り組んでいる外傷の初期観察・処置法トレーニングコース(PTCJ:Prehospital Trauma Care Japan)の成果と考えられる。本稿では、質の高い救急医療を目指した当院の地域医療連携を確立するための取り組みについて述べる。
【ホウエツ病院の立地条件】
当院は徳島県、美馬郡、脇町にある。脇町は、徳島県の東の端で海に面した徳島市と、西の端、かつて高校野球で有名となった故蔦監督が率いた池田高校のある池田町、その間をほぼ一直線に流れる四国三郎と云われる大河、吉野川の中流域の山間に開け川に面している。西田敏行さん出演の「虹をつかむ男」のモデルとなった町である。また、「うだつが上がる・・・上がらない」の語源もこの町の建築様式から来ている。人口18,000人少々で静かな町である。人口の高齢化、過疎化が著しく平成17年1月1日には町村合併が予定されている。
昭和53年1月1日より徳島県内は7つの医療圏に分けられ、当院は県西部T保健医療圏内(5町2村)に属する(図1参照)。県西部T保健医療圏の人口は50,000人弱、医療機関は13病院、35診療所があり、二次救急病院はこの保健医療圏の東の端と西の端に一箇所ずつある。前述したようにこの保健医療圏の東側に当院があり、西側は町立病院である。どちらも年間救急車受け入れ件数は500件前後でほぼ同数である。
徳島県には、三ヶ所の三次救急病院(救命救急センター)がある。一つは徳島大学病院、もう一つは徳島県立中央病院であり、隣接して立っている。残す一つは徳島赤十字病院、徳島市の南隣の小松島市にある。徳島県の地図を見ると山地の多さに驚かされる。吉野川沿いの狭い山間から扇状になった河口域と海岸沿いの一部が平野である。このような地理的事情から徳島市近辺に救命救急センターが密接している。徳島県には自動車専用道路(徳島道)があるが、片側一車線である。しかも当院からインターチェンジまでは5分以内であるが、各救命救急センターまでは近いとは言い難く、各々の施設まで救急車でも40〜55分はかかる。
【ホウエツ病院ができるまでの歴史】
当院の歴史は、筆者の父が昭和23年1月10日に診療所を開業した時点から始まる。昭和35年には病院化(林病院)され、以後徐々に病床を増やし、平成元年には65床となった。
父が主に診療をしていた時代は内科、小児科が中心であった。現在の様に専門科されていたわけではないが、医学書を読み、「いつでもどんな人でも先ずは診る」をモットーに堅実にプライマリーケアを実践していた。そんな中、筆者が医師となり卒業大学(川崎医科大学)から徳島大学医学部第三内科学教室へ入局した。
その後、父と筆者の二人で診療をする時間が徐々に増えたが、地域における治療や検査内容の遅れが目立って感じられた。その改善策として、先ずは、必要度の高い検査から充実を図っていった。動脈硬化性疾患が多いため、「超音波検査」で、腹部大動脈、頚動脈をはじめ、膀胱、前立腺、甲状腺等もルーチンで診た。また当時は珍しかった短焦点の管球を使用した胃透視を行うとともに、胃カメラ等も開始した。これらによって、胃癌を中心に、早期癌が発見され、早期発見・早期治療という二次予防に寄与した。これらによって徐々に周囲の医療機関からの信頼が高まり、当院の各検査部門への紹介件数も増加した。
昭和62年、紹介して頂く先生方や紹介先に対する更なる信頼性や利便性を高めるため、県内では初めて電子スコープ(上部・下部共に)を購入し、導入当初より所見や静止画は勿論、検査開始から終了までを記録したVTRも付けて紹介状への返事を出した(現在では全て内視鏡専門医が検査、処置を行っている)。また、同時期、当時は脳血管疾患が多いにも係らずCT検査装置が非常に高額であり、近隣には無く地域の人達が不自由をしていたため導入した。導入当初よりCT検査の結果には、全て放射線科医師が所見を付けた。この頃から以後の当院の方針が決まったと思う。
昭和63年には病院を医療法人化し、社是「私達は博愛と敬愛の心を最も大切にして健全な経営に努め医療を通じて地域と社会に貢献します」、社訓「常に相手の立場に立って考え行動する」を掲げた(ホウエツ病院でも社是と社訓をそのまま引き継いだ)。また、当時の日本経済はバブル期であり、医療経済においては現在の高齢化社会が叫ばれ始めていたが緊迫感はなかった。そのときから、当院では経理に外部からの人材を導入し、民間病院としては珍しい経営内容の明瞭化にも取り組み出した。
平成4年、父に変わり筆者が院長となった。民間故、利潤は大切であるが病院としての健全な発展を先ずは優先し、医療のあるべき姿、後から見て後悔しないだけの医療内容、自分が生涯を掛けて納得の出来る経営体質を目指した。
平成5年、当院から半径20km以内にMRI検査が出来る施設がなかったため導入した。しかし、検査機器を揃えるだけではカバーすることのできない地域医療に欠けた部分、特に救急医療や全身管理を必要とする外科診療(当院はそれまで手術室や外科部門がなかった)に対応出来ていない事を痛切に感じた。そこで、病院の規模拡張を検討したが、林病院は旧脇町内の民家が密集した場所にあり、土地面積から考えると建替えもままならず、新築移転を決定した。それまでの林病院も開院当初から大きな建替えを3回行っており、まだ築後14年目で、決して古い病院ではなかった。
【ホウエツ病院の開設】
平成8年5月1日、新築移転しホウエツ病院を開設した。病院の名前も私を脱して地域の人達に親しまれ、地域の医療機関ともより良い連携を取れる病院を目指して林名を廃し、地域の俗称である「ホウエツ(ホウは芳:吉野川の旧字、エツは越:高越山の字)」と命名した。
新しい病院では、アメニティを優先した。現在では当たり前であるが、病院内では全ての階で段差無くし、入り口はオープンカウンター、待合は二階へ吹き抜け、四国とはいえ冬は寒いため一階は待合、廊下を含め全て床暖房を配置した。また、診察室周囲は勿論、各部署にも待合用椅子を備え、分煙室を外来、病室に設けた。病室も24時間空調が効き、広部屋も4人までの人数とし、一人当たり8平方メートルを確保した。さらに廊下も明るく、壁には絵画も飾り、ホテルに負けないだけの雰囲気や暖かさを利用者に感じていただけるよう心掛けた。

次に運営方針の基本コンセプトとして、「患者さんに優しく、仕事もしやすく」を掲げた。平成8年当時、当院は四国では最初にナースコールホンを導入した。また各医師と他の主要メンバーは全員PHS改造の院内携帯電話を使用した。救急室もタイル張りで簡単な外科的処置はその場でできる様になった。2階には様々な機械類が入っても余裕があるだけの手術場を設けた。加えて会議室も、地域の様々な勉強会に使える様に、100人は椅子に座れるだけの広さを取った。
おりしも阪神大震災の後、日本経済のバブルが弾け、医療経済へ抑制が掛かり出した時であり、当時から急性期医療は今後経営的に大変な時代になると言われ、一民間病院にとっては正に清水の舞台から飛び降りる心情下での投資であった。
ホウエツ病院開院にあたっては、地区医師会員に対して、当院の目標、意義を説明し、病診連携については、以下のような取り決めを当時の医師会長を通じて行った。
| 『医師会員とホウエツ病院は、高度で効率的な医療を実践するために相互に協調を保ちつつ、郡内医療の充実および発展を目指すように努める。』 1)主治医制の確立:会員とホウエツ病院は、かかりつけ医(主治医)を尊重し、主治医の自主的判断を最優先する。 2)会員とホウエツ病院は、診断及び治療内容についての批判はさし控える。 3)ホウエツ病院は、可及的速やかに検査及び診断が終了すれば主治医のもとで患者の治療が円滑に行なわれる様配慮する。 4)ホウエツ病院は、主治医に対し患者の情報の伝達を頻繁に行って、連携を密にする。 5)在宅当番医を行っている医師会員から二次救急の要請がある場合には、ホウエツ病院はいかなる時間といえども、つねに100%患者を受け容れる。 |
図2に示すように、それまでの65床の建物は、有床診療所「林クリニック」と称して在宅医療を中心に、地域医療活動を行っている。
ホウエツ病院の経済面での運営も然る事ながら、医師、看護師を中心に医療スタッフの確保には未だに苦労している。徳島県全体が田舎で、大都市から見れば大差は無いと思われるかもしれないが、人、物の流れは徳島市内の方へと向いており、中心部から辺地へは人材は集まり難い。高速道路を利用すると徳島市内中心部までは約30分の距離であるが、未だに脇町へ訪れた事の無い人が、徳島市出身の人でもいる。
ホウエツ病院の開設当初は、常勤医師は筆者を含め内科医師3名、外科医師1名、皮膚科医師1名であり、加えて整形外科、脳外科、放射線科のパート医師で診療をしていた。ただ、筆者と皮膚科医師(筆者の姉)以外は全て大学からの年単位の派遣に頼っていた。派遣された医師は、個人的には、普通に人間的付き合いができるのだが、診療に於いては筆者が望むプライマリーケアとは程遠いものであった。
そんな中、外科から派遣された医師で、自分で開業するために院長業務も学びたい意志のある方に院長業務を委譲した。当院としては業務内容も経営も公明さを築きたく、その医師が親族で無いが故、むしろ願ったり叶ったりであり、経営に関しては全て任せ、平成10年3月9日筆者は理事長となった。また丁度時期を一致して筆者の友人(自治医大卒業生の外科医)が勤める大学の医局で、医局の方針に自分の生き方が合わず活路を求めている医師を御紹介頂き、医局派遣とは関係の無い常勤医として招聘した。
自治医大の教育は、根底からプライマリーケアが専門であり、筆者と医療の取り組み方に関する類似点が多い。その友人が自身を持って勧めてくれた人物は、医療に対する取り組みが非常に熱心で外科医、麻酔医としても技量に長けており、当院の大きな飛躍の一歩となった。そこで、一時的に医局から派遣で来る常勤医をお断りすることにした。当然、プライマリーケアを専門とする医師が増えたことで、患者さんとのお付き合いも地域の生活に密着したものとなっていった。
【僻地医療への協力とプライマリーケアに基づく病診連携】
平成10年4月1日、当院より南の剣山に向かって約30km山麓に入込んだ山間の僻地、木屋平村より診療応援を要請され応える事となった。その診療所では普段、月曜日から木曜日は卒後義務年限内の自治医大の卒業生が診療をしていた。また週末の金曜、土曜日は大学からのパート医師でまかなっていたのだが、どの科の医局でも医師派遣を断られ、当院へ依頼が来た次第である。当院自体、医師の業務は手が足りず、ギリギリの状態であったが、困っているのをじっと見て居られる者は誰も居ず、皆賛成の下で、交代で応援に出掛ける事となった(現在も引き続いている)。
このことは、僻地医療を学ばせて頂く点で大きな収穫となった。加えてこの僻地の方々に対してはCT、MRI等の精密検査の必要な場合、入院治療が必要となった場合、さらに救急医療が必要な場合に、当院を利用して頂いている方が多数いる。したがってプライマリーケアのみならず、その後のフォローや受け入れ態勢を築く上で、病診連携の良い機会となっている。
我々が望む姿の医師不足で困っていた折、平成9年4月、病院の近くの(山川町)出身でAMDA(注:旧アジア医師連絡協議会。現在は活動がアジア以外にも広がり、メンバーも医師に限定されていないため、AMDAを正式名としている)から里帰りした吉田修医師と知り合う事が出来た。彼はアフリカ、主にザンビアを中心に国際協力活動に従事していた2)。彼のお父様は、山川町で開業していたが、すでに他界し診療所を閉じていた。お父様は、地元の方々からの人望が厚く、吉田医師に再度開院の望みを託され帰る事になった。吉田医師は筆者と会い、話しているうちに国際協力と地域医療の根底にある共通点に気付き、開院前まで当院の診療を手伝って頂ける事となった。
彼は当院勤務中、仕事終了後、休日に、現在地球上で起こっている貧困や飢え、環境破壊などについて熱心に講演された。また定期的な勉強会を、実際に彼と共に世界各地で活躍されている方々を招き開催した。その名前も「地球人カレッジ」と称し、同志を集め実際に現地への支援を続け、一般の方を募ってスタディツアーを組み、現地で各々の特技を活かしてボランティア活動を行っている。通常業務が慌しい中、当院の職員の中にも、ボランティア活動に一緒に参加する職員も出て来た3)。
ここで吉田医師の言葉を紹介する。
| 「今アフリカは先進国の影響を急速に受けて、のんびりした生活が脅かされつつあります。各国より道路、ダム建設等のプロジェクトが持ち込まれていますが、公共機関が行うと定められた期間と予算で動き、餓死している人達が居る一方で、巨額の費用によるダム建設等でさらに自然破壊を招いてしまう矛盾を生じています。しかも建設後、現地の人達では壊れても修理が出来ず、放置されている現実を教えて頂きました。救援物資も送り方を間違えると依存心を作るばかりで、現地の人々の生活形態を変えてしまい、現金が無ければ満足出来ない社会を作ってしまいます。現地の人達が一番簡単に現金を得ることができる森林伐採もその一つで、森を破壊し蒔を売り自然が破壊され、今や先進国の生み出す温暖化現象と並んで大きな問題となっています。」 |
近年、現地へ出向いて活動される方が増えているが、生活の中まで入り、長期的視野に立って援助を展開することはなかなか難しい。そもそも医療の持つ献身性は国際協力と同じ観念と思われる。医療過疎という見地から見ると日本国内の山間・離島等の僻地とアフリカや東南アジア諸国の発展途上国とは似通った部分がある。たとえば、(1)先進地では専門医指向が強いのに対し、僻地では患者さんは医師を選り好みすることができないこと、(2)僻地では医師はプライマリーケアに基づく総合医としての技量が問われること、(3)診療だけでなく医師教育も含めた後方支援病院との連携が必要になってくることなどである。
つまり「プライマリーケアに基づく病診連携」という考え方は、国内外を問わず必要な事である。また総合医療や地域医療、国際医療も結局は、様々な学際の専門職が参加する中での、効果的な役割分担なのだと思う。そして山間僻地にしても海外の発展途上国にしても、全ての医師が行きたいと望むわけではないし、行くためにはそれなりの準備と心構えが求められる。
チーム医療やチームケアを実践するためには、チーム関係の成立が前提条件となる。それを検討する上で、アライアンスモデル4)が参考になる。連携を確立するためには、三つの要素が重要である。すなわち、(1)倫理感に基づく専門職間の相互の優しさと思いやり、(2)相互に影響を及ぼすこと(実践の中で教え合う)による知識の統合、(3)専門職間の連携から得られる社会的支援である5)。救急医療、僻地医療、国際医療協力、そして保健、福祉などの担当機関の機能は別々のルートで発展して来たが、質の高い医療を提供することが求められる現代、お互いに同じ目線でそれぞれの機能を利用しあい、お互いに活かす事から「連携」は必然的に生まれて来ると思う。
【24時間診療体制のエピソード】
平成10年1月から、民間病院同士で運営されることは珍しい開放型病床(5床)を開始した。周囲の開業医やそこで診て頂いている患者さんに入院が必要な状態になった時、なるべく不自由無く、気軽に利用して頂ける様に心掛けている。
当院では、単独の外来で通院されている患者さんが入退院される数よりも、何らかの形で他の医療機関に掛かられている方が紹介の形で入院されたり、また地域の他の病院あるいは医院から高度医療機関へ紹介された場合で患者さんが退院する時に、リハビリテーション等が必要な場合に当院をクッション(社会復帰のための準備の場)として利用して頂いたり、何らかの紹介関係が有る患者さんの数が遥かに多くなっている。加えて、届け出制の24時間連携体制を取って頂いている医療機関も増えている6)。
ここで、当院が24時間いつでも診療に対応していることが周囲の方々に浸透した当時のあるエピソードを紹介する。
夜間、中年の男性が隣町を乗用車で運転中、たぬきを敷いたと言って連れてきた。当院は、獣医科ではない事を説明したのだが、「診療拒否をするのか!」と逆上され、仕方なく「たぬき」の治療を引き受けることになった。
当直医の診察によると打撲による脳震盪を生じているだけの様子であった。その男性は「今から隣県へ行く用事があるのできちんと診ておく様に、明日迎えに来る」と告げ、そそくさと立ち去った。はて、呼吸状態は問題無いが、一応循環動態に対し血管確保を試みるも血管確保はできず、仕方なく救急室に安静にさせて置いた。
翌日朝行ってみると「たぬき」君、見慣れぬ部屋に興奮したか、そこら中走り回って臭いの何のって大変な始末であった。翌日、本当にその依頼主は迎えに来られ直ぐに立ち去った。全ての困った方を受け入れる方針も、アー遂に動物までも・・・とその日の当直医は思ったそうである(人間だけで手一杯の為、獣医さんは未だ配置していない)。
【救急診療の質の確保:ISO9001と情報管理】
平成12年4月27日、交通外傷が増えたため高速ヘリカルCTを導入し、平成13年10月1日からは脳血管障害に対し拡散法(D-WI)の撮れるMRI機器に変更し、放射線技師の協力下(宅直当番制)で24時間救急医療体制を敷いて、地域の紹介医へも対応している。何分小規模な民間病院のため職員の心意気に頼っているのが現状であるが、担当技士らは快く呼び出しに即時対応してくれ、10分以内には病院に到着している。
平成14年9月18日、診療行為全般に対してのISO9001の承認を得た。
当院のISO9001品質方針:患者様の満足度を高めるために継続的な業務改善を行います。
平成15年度キーワード:危機管理
これは診療内容に関して外部からの客観的な評価を得て、安心して利用者(患者、家族、地域の診療所など)に当院を活用して頂くためである。このための書類作成についても夜遅くまで職員たちがボランテイア的活動により行ってくれた。さらに今後も診療内容の改善と標準化に努めたいと思っている7)。
平成12年6月1日より、当院では基本ソフトをユニックスで院内LAN(ローカルエリアネットワーク)を開始し、病棟管理、掲示板等を自作して利用していた。平成13年12月21日には、業者に委託し半年がかりでこれをウインドウズに変更し、前者に加え各検査所見、検査予約システム、画像閲覧システム(CT、MRI、超音波、各内視鏡等画像を端末で見ることができる)を稼動している。更に、セキュリティーを上げて院内LANにインターネットを繋ぎ各端末で利用できるようにもした。
これも病診連携の一環で、画像、所見共に希望される方にはインターネットを通して送信可能である。脳疾患に関しては、徳島大学医学部脳神経外科への救急搬送時に、当院からCT等の画像をメールの添付ファイルの形で送らせて頂いている。更なる高速回線がこの地域にも到来する事を期待して止まない。このシステムは電子カルテと異なり、請求業務やカルテそのものは加えていないがセキュリティー面ではむしろ好都合である。また、病棟管理システムも無くてはならない状況である。病床数が少ない当院としては、前述した開放型病床を運営する上でも、二次救急病院を賄う上でも、病床を無駄無く使用する事が責務である。近い将来、医療機関連携に於いて病床状況報告が必要となった場合に対応しやすいと思われる。さらに、当院は平成12年9月1日より急性期加算を頂いているが、今後も常にあらゆる急性の患者さんの受け入れを継続できる様に努力したい。
【ヘリコプターを活用した救命活動の展開】
当院では救命救急センターまで救急車で移動するにも長時間を要する。重症患者の場合には一分一秒を争う状況であり、当院からの同乗搬送時には胸が痛い。また剣山をはじめとする周囲の山岳地形等から交通事情が極端に悪い場所で発症した外傷、重篤な疾患等の方が現場から搬入される場合には救急車では時間が掛かり過ぎる。こんな時にはヘリコプター(以下ヘリ)の利用が大いに役に立つ。
消防庁は、日本の地形から救急搬送にヘリの利用を今後大いに取り入れ様としている。日本はヘリの所有台数(約800台)が世界で第3番目に多いにもかかわらず、なぜか人命に関わる事に利用されていない。その利用率は、後進国並みと言われている。その理由として、一つは医療機関内にヘリ離発着場を所有している所があまりにも少ないことがあげられる。この対処策として、救命救急センターには今後、ヘリ離発着場を設ける方針が出ている。しかし、救急搬送の必要が発生した現場へ直接ヘリが離発着できるまでには未だ社会環境が整っているとは言い難い。
他方、救命救急センターへの二次救急病院からの搬送時間を短縮するためには、二次救急病院が離発着場を所有することが重要である。しかし二次救急病院が全ての患者さんを受け入れようとする努力をしなければ、二次救急病院がたとえ離発着場を設置しても円滑な運用は難しい。
地域の消防署、救急隊との顔と顔の連携関係がなければ離発着場の有効活用ができないことは自明のことであるが、幸い当院は非常に小さな病院でありながらも各職員の努力、そして消防署、ことに救急隊との厚い協力関係が有るため、「ヘリ場外離発着場」の許可を平成14年12月に得た。また平成15年4月にはアスファルト舗装を行い、散水の不要なヘリポートが出来上がった8)。

平成15年4月28日には防災ヘリの協力の下、離着陸訓練を行い、早速同年7月には2件、9月には1件の救急搬入が有った。最近の症例検討会には航空隊の方にも参加して頂いている9)。
平成15年9月18日、徳島県立中央病院で定期の救急症例検討会において、以下のヘリ運行可能状況がわかった。
大震災が発生すれば、徳島県の防災ヘリ「うずしお」は本来の任務上、被害地の調査だけで手一杯であり、自衛隊ヘリは災害地への物資、人材の投入、現地での活動で手一杯と予測される。さらに、警察ヘリにしても防災ヘリと協同で救助活動を行う体制が検討されるだけでも未だスクープニュース(秋田県)になる程である。阪神大震災で唯一自由が効くのは、民間ヘリだったそうである。
こういった事情から、平成15年10月19日、当院のヘリ場外離発着場へ民間ヘリ(阪急航空)に来て頂き、実際の機体に触れながらヘリについて勉強、当院会議室でヘリと救急医療に関しての講習会を行った(一度、離発着した事のあるヘリポートへは次回からはそのヘリは手続き上からも、安全上からも円滑に運用できる)。

救急医療に関する講師は木内先生(大阪 北野病院救急部 部長)、機体手配等は当院の場外離発着場の申請等お世話になった航空医療研究所NPO法人木村様にご協力を頂いた。周囲に御住まいの方々にも今後、ヘリの利用が増えた時の騒音等に対するご理解を頂くため、ご招待も兼ねて体験搭乗を行った。またこの勉強会では救急医療に携わる色んな方々が参加し、公的機関と民間が共に取り組む良い連携の機会となった。
【おわりに】
当病院周辺の様に過疎化、高齢少子化の地域で厚生労働省が構想する地域中核病院や小規模救命救急センターがこの地で医療経済的に成り立つとは到底思えない。その地域の必要度に応じた医療を行うためには、利用者のニーズ調査に基づいた医療サービスを提供することが重要であり、患者さんを中心とした基幹病院同士(病病連携)、かかりつけ医同士(診診連携)および病院と診療所(病診連携)間の連携がますます重要となる。今は補助金を受けて医療活動が出来ても、税金が支えてくれる時代は終末を迎えようとしている。これからはどのレベルの医療機関であっても、「連携」はお互いの経営を維持し、診療の質を保証するためのキーワードとなるだろう。
病院としての社会一般の評価と、税制等の経済面から、筆者は以前、当院の医療法人の形態を特別医療法人や特定医療法人へと変更しようと考えていた。しかし少なくとも今後の当院の医療が社会的に評価を得るためには得策とは思えなくなって来た。公的病院であれ、民間病院であれ、やはり地域に密着した医療を行うためには地域の方々と行動を共にできることが一番大切と思えて来たからである。
一次救急、二次救急、三次救急医療機関が、それぞれお互いのおかれている状況を理解しあい、患者さんの命や救命後の生活の質の確保を中心として、納得のできる話し合いの場を確保する。つまり連携の場や連携システムを地域に持ち、良い意味でプレッシャーを掛け合いながら救急医療全体のレベルが更に高まっていく事を期待し、稿を終えることにする。
参考文献
1) 徳島県保健医療計画 、 http://www1.pref.tokushima.jp/hoken/iryouseisaku/doc/03-02.html(2003年10月26日アクセス)
2) 林秀樹:国際医療、地域医療の未来を見つめて、徳島県医師会報、75-76、No.320、1998
3) 林秀樹:若手ドクターへの期待 もっと現場の奥へ入り込んでほしい
JAMIC JOURNAL、19、2000、9月号
4) DeMarco R, Horowitz JA, McLeod D.: A call to intra-professional
alliances. Nurs Outlook. 2000; 48:172-8
5) 眞野元四郎、谷岡哲也ほか編著:『続:精神障害者のためのヘスルケアシステム;学際的なチームケアモデルと実践のガイドライン』、99−129、西日本法規出版、2003
6) 林秀樹:小規模病院における開放型病床の成果, Medical Management, 2000年9月号,
http://www.jamic-net.co.jp/medipro/mm/data/0009/0009-1.html(2003年10月16日アクセス)
7) 林秀樹:ホウエツ病院における病診連携、徳島県医師会報、10-13、No.379、2002
8) 雑誌紹介記事;救急医療にヘリコプターを、徳島エコノミージャーナル、28-29、No.286、2003
9) 雑誌紹介記事;救急医療にヘリコプターをパート2、徳島エコノミージャーナル、30-31、No.287、2003